ニュース全ニュース

『東京オリンピック』舞台挨拶で山本晋也監督と高平哲郎さんが当時の感動をふり返る!

2015年10月17日(土) レポート

10月17日(土)、よしもと祇園花月で『東京オリンピック』が上映されました。
東京オリンピックが開催された翌年の1965年に上映されたこの公式オリンピック映画は、和田夏十、白坂依志夫、谷川俊太郎、市川崑の共同シナリオを軸に、ニュース、劇映画のキャメラマン164人が、イタリアテクニスコープ・カメラ5台と、200ミリ、1600ミリの超望遠レンズ、その他光学技術最高の技術をふるって撮影された五輪映画初のワイド版。 監督の一員として参加した安岡章太郎が体操と一人の選手のエピソードを担当、谷川俊太郎がカヌー競技の撮影にあたった大作です。

上映前の舞台挨拶に、山本晋也監督と演出家の高平哲郎さんが登壇! 清水圭のMCのもと、同映画が上映された頃の懐かしい思い出話に花を咲かせました。
「本当に懐かしい」としみじみ語ったのは山本監督。当時27歳だった山本監督は、カメラマン助手として撮影にかかわっていたそうです。「カメラマンが亡くなった今だから言えるんだけど、助手だった僕が撮ったシーンがあるんです。砲丸投げで、『お前、撮っておいてくれ』と」と序盤から仰天の告白!

高平さんは、東京オリンピックが開催された当時は高校2年生。
「オリンピックが始まる1カ月前ぐらいに家にカラーテレビが入って、ほとんどカラーで見ることができました。映画が上映された頃は受験生だったけど観ましたね。映画としても、ものすごく楽しかったのを覚えています」と思いを馳せました。「カラーテレビがある家には近所の人たちがつめ掛けた時代ですね」と山本監督。

日本国民を熱狂させた東京オリンピックにおいて制作されたこの映画は、カンヌ国際映画祭国際批評家賞受賞をはじめ、数々の賞を受賞した傑作です。山本監督も「本当によくできた映画だと思います」と絶賛。高平さんは「当時のテレビだと映し出されなかった選手の汗まで克明に捉えていて、すごい迫力でした」とふり返っていました。

当時の女子ハードル選手・依田選手がスタート前に口笛を吹くエピソードも。「前年に『上を向いて歩こう』が流行ったから、口笛ブームだったんですよ。で、依田選手は何を吹いてるのかな?と思ったら、村田英雄さんの『王将』だった。なんでもっと若い曲じゃないんだ? と思いましたよね」と当時の思い出深いシーンを回想。
山本監督は「とても不思議なカットがあるんです。富士山のふもとを、聖火のけむりがバーッと走るシーンがあるんです。あれ、どうやって撮ったんだろう?」と首をかしげていました。

思い出話が盛り上がったところで、山本監督が今も大切に保管している貴重なグッズを紹介。当時のエンブレムに写真ポストカード、記念100円硬貨、そしてプレスパスに腕章も。「これをつけて三脚担いでね…地獄でしたよ僕らは」と苦笑いしつつ、うれしそうな山本監督。

現場で遭遇したおもしろハプニングも。「開会式で8000羽のハトが放たれたんですが、ハトってどこかへ飛んで行かずに旋回するんだよね。ハトが空をぐるぐる旋回していると、地上にいる選手団がユニフォームを手で払っていて。ハトのフンが落ちてきたんですよ」と話し、大笑い。ほかにも撮影秘話が次々と飛び出し、お客さんも興味津々に耳を傾けていました。

高平さんは「あの頃、東京オリンピック開催されると決まった時のワクワクときたら、今回(2020年)とは比べものになりません。なにせ1964年といえば、戦後の高度経済成長期とも重なっていたし、とにかくすごい時代でした」と回想しつつ、「この映画は劇映画なんだけれど、記録映画としてもここまで美しい映像を撮ったのはさすが市川崑監督だなと思います。本当に映像が美しいです」と見どころを伝授。

山本監督は、「映画を見たら『東京はすごい』と思うかもしれないけれど、本当は、あの頃の東京は埃だらけだったんです。なぜなら当時は、地べたがアスファルトではなく土だったから。風の日は砂埃が舞って、家に入る時に服を叩かなくてはいけなかったぐらい。だから、かなり無理して開催したということですね」と、東京生まれの山本監督ならではの独自の視点で解説しました。